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2-6吐蕃
7世紀前半に_________がチベット高原を統一して建国した。中国文化とインド文化を取り入れ,______に代表される独自のチベット文化を形成した。唐とは建国当初から戦争と講和を繰り返したが,唐の太宗は平和を保つためにソンツェン=ガンポの要望に応じて____を降嫁させた。ソンツェン=ガンポの死後は再び唐との関係が悪化し,安史の乱後は唐に対して優位に立ったが,9世紀半ばに内紛が発生し,それに乗じた唐の攻撃を受けて衰退した。

第2課 東アジア史2(隋唐~宋) 7世紀   Evagreen

○仏教⚠️
唐代にはシルクロードや「海の道」といった交易ルートが確立されたことから、交通路が発達し、外国へと仏典を求めに赴く僧侶が見られた。
・__(602年〜664年)
行きも帰りも陸路。ハルシャ=ヴァルダナ王時代の北インドを訪れ、ナーランダー僧院で学んだ。帰国後は太宗・高宗の支援を受けて長安で仏典の漢訳にあたった。インド旅行記としての『_____』が有名。
・__(635〜713年)
行きも帰りも海路。インドを訪れ、帰国途中スマトラ島の___________に立ち寄った。その時の様子を記した『_______』で知られる。帰国後、則天武后の支援を受けて仏典の漢訳にあたった。

第2課 東アジア史2(隋唐~宋) 文化史 7世紀   Evagreen

☆____/武則天(武照,位690~705年)
則天武后は李氏ではなく武氏の出身のため,彼女が皇帝になったことによって天子の姓が変わった=唐は一時滅亡したとみなされる。そのため国号は「周」に変わった。他の「周」と区別するため,天子の姓をとって「__」と呼ぶことが多い。武則天が息子の中宗に禅譲すると,「唐」の国号が復活した。彼女の皇帝即位は篡奪とみなされることから長らく悪女としての評価を受けてきたが,則天武后の治世は比較的安定しており,また門閥貴族勢力を排して科挙官僚を積極的に登用し,その後の政治の担い手が貴族から科挙官僚に移る流れを作ったことから,近年再評価がなされている。また,在位中に帰国した義浄を自ら出迎え,その翻訳活動を保護したといわれる。

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○東西交流の活発化
唐が安定した政権を築き,広大な領土を支配したことで,陸路·海路の両面で東西の交易や文化交流が活発化した。
◉内陸交易
西域の広大な地域を唐が支配したため,シルクロードを通じた交易が拡大した。主に,アム川·シル川流域で活動する____商人が交易の担い手となった。中国産の絹や茶と西域産の馬が主に取引された。
◉海上交易
東シナ海·南シナ海から東南アジアやインド洋へ向かう交易ルート(「___」)が確立され,広州·泉州などの沿岸の海港都市が交易の拠点となった。中でも特に繁栄したのは,貿易を統括する☠️☠️が最初に置かれた__だった。主に海上交易の担い手となったのはアラビア半島やベルシア出身のムスリム商人たちであり,「_____☠️☠️」と呼ばれた。

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このような大規模な遠征事業は多大な軍事費を必要としたため,次第に国家財政を圧迫するようになった。
○冊封政策
周辺諸国の首長が唐の皇帝に貢物を差し出し(__)、皇帝が彼らに称号や官職を与える(__)という形式上の君臣関係を築く政策。漢代から続いていた。羈縻政策との違いは,冊封関係にある国に対して唐は実効支配を及ぼしていないという点。中国王朝は,こうした冊封·朝貢を通じて周辺諸国に文化的·政治的な影響を与えており,これは漢字の使用や中国の暦法の使用,律令制度の導入が朝鮮半島やヴェトナムで見られることからもわかる。冊封国の代表的な例としては,新羅·南詔·渤海など。

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○ 羈縻政策(キビ)
唐の異民族に対する支配体制。服属した異民族の族長や王に地方長官(都督)の官位を与え,事実上の自治を担わせる間接統治政策。高宗は,羈縻支配を統括し,それぞれの羈糜州を親察する機関として___を各地に設置し,その責任者を都護とした。羈縻政策下では,それぞれの民族に事実上の自治を与えていたが,あくまで民族の首長は「唐の地方長官」という地位であり,異糜支配下にある地域は唐の領域内と見なすことができる。

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◉東方
·朝鮮半島には当時,___·__·__の3国が存在したが,唐は新羅と同盟を組んで高句麗·百済と抗争した。高宗の治世下の__年には,新羅と共同で百済を滅ぼした。その後,百済再興を目指す旧百済王族とそれを支援した日本を______で破った。668年には長年の懸案であった高句麗遠征を行い,高句麗を滅ぼした。
·しかし,朝鮮半島を支配下に入れることが目的だった唐は平壌に__☠️☠️を設置し,百済·高句麗滅亡後に新羅と対立した。新羅は高句麗の遺民を支援して唐に対する反乱を扇動し,水軍を増強するなどして対抗した。結果,__年には唐は朝鮮半島から撤退し,新羅が朝鮮半島を統一した。
◉南方
·環王(チャンパー)や真臓(カンポジア)が唐に朝貢した。
·インドの___☠️☠️との交流によって仏教美術や学問·知識が唐にもたらされた。太宗時代の629年には玄奘がインドへ出発し,641年にハルシャ=ヴァルダナ王からの使者が来訪した。ヴァルダナ朝崩壊後の671年に義浄がインドへ出発した。

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☆第3代:__(位649~683年)
太宗の死後に即位した。盛んな外征を行い,唐の最大領土を現出した。

○太宗·高宗による積極的な対外政策
◉北方
630年に太宗は東突厥を減ぼした。___の降伏後もモンゴル高原では東突厥の残党の活動が見られたが,650年ごろまでには唐が完全に北方のトルコ系諸民族を支配下に収めた。
◉西方
·640年に太宗は西域に遠征し,シルクロード沿いの__を滅ぼした。657年には高宗が___を減ぼし,安西都護府を置いて支配下に入れた。
·太宗はタングート(チベット系),吐谷渾(鮮卑系)を降したが,チベット高原の__とは争いと講和を繰り返し,641年には太宗が吐蕃の依頼に応じて皇族の女性の____を吐蕃に嫁がせた。

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☆第2代::__(___,位626~649=____)
父・李淵から譲位されて即位した。太宗の治世においては「貞観」の元号を使用していたことから、太宗の治世を「貞観の治」と呼ぶことが多い。

古来の諸制度を集大成し「____」と呼ばれる法制度を整備した。
・律:刑法
・令:民法・行政法
・格:追加規定および臨時法
・式:施行細則

官僚においても中央集権化を図り、以後の中国王朝の基本的な制度となる____制を確立した。
●三省
・___:勅令の起草を行う。}立法機関
・___:勅令の審査を行う。}立法機関
・___:勅令の施行を行う。六部と呼ばれる諸機関が付属する。}行政機関
●六部
尚書省に属する行政機関。
・吏部:人事を司る
・兵部:軍事を司る
・戸部:財政を司る
・刑部:司法、警察
・礼部:教育、外交
・工部:公共事業
◉☠️☠️
三省六部からは独立した官吏の監察機関として設置した。

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1-2唐
○都:__
☆初代:__(李淵,位618~626)
·統治制度
基本的には隋時代の均田制と,それを基盤とする府兵制·租庸調制を維持し,州県制を継承した。
◉均田制
·18歳以上の男子に___(1代限り)80畝と___(世襲可)20畝を支給。
·高級官僚には_____(世襲·売買可)を支給。
→身分によって配分する土地に差があった。
◉府兵制
·長安,洛陽などの華北を中心に,全国に約600の🤷‍♂️🤷🏻を設置し,兵士の徴兵や訓練を担当。
·府兵は租庸調を免除されるが,武器·衣服などは自弁で,農民にとっては大きな負担となった。

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☆第2代__(位604~618年)
·大運河建設
文帝(楊堅)の開始した大運河事業を継承し,華北(長安·洛陽といった大都市を抱える)と江南(農業生産地)をついに連結した。
→長い間分裂していた中国の南北間での文化伝播や交易を盛んにし,文化的·経済的な統一を進めた。
·対外政策
◉北方:突厥の東西分裂に乗じて,東突厥を服属させた。
◉西方:鮮卑系の___を討って青海地方を併合。
◉南方:インドシナ半島の林邑(チャンパー)を討伐。
◉突厥と高句麗が連携することを防ぐため,3度にわたり___に遠征。→失敗し農民の不満爆発
○ 滅亡
·煬帝は大運河建設のために農村から多くの労働力を徴収し,3回にわたる高句麗遠征のために物資を盛んに集めたため,農民生活は大いに困窮した。
→遠征失敗で隋の政治的権威は失墜し,各地で農民暴動が起きた。
→全国で反乱が発生し,各地の有力者が軍閥化する中で,隴西の豪族だった_🤷🏻が617年に大興城を占領した。場帝の死後,後を継いだ楊侑が李淵に禅譲して隋は滅亡した。

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